鹿児島市出身。1953 年、京都大学経済学部卒業。鹿児島の高島屋開発(通称タカプラ)1993 年~2007 年に社長 を務めた。戦時中は佐世保市に勤労動員され,帰省中の1945 年に鹿児島大空襲に遭遇、陸軍航空士官学校入学前に終戦を迎えた。機会を捉えて戦争体験を伝え平和への思いを語った。80 年代以降は鹿児島市と友好都市の 中国・長沙市などとの交流に情熱を傾け、県と市の日中友好協会の会長を長く務めた。 2014 年、終戦前後の混乱期に幼い残留邦人 を引き取って育てた中国人養父母に感謝する碑の建立では主導的役割を果たした。
日中関係が悪化するたびに草の根交流と相 互理解の大切さを説いた。鹿児島市教育委員長、鹿児島経済同友会福代表幹事なども 歴任した。(以上・南日本新聞より)尚、(公 社)日本中国友好協会(東京)理事も歴任。
海江田順三郎が残した両国の友好の証しは鹿児島市に多く残る。西郷南洲公園(墓地)内に勝海舟の秘と並んで 桜島を臨んで建つ『中国の西郷』と呼ばれ、孫文らと辛亥革命 を先導した長沙市出身の志士黄興(こうこう)の記念碑もそうである。 訃報を受け、県内の関係者からも別れを惜しむ声が相次いだ。
鎌田 敬 鹿児島県日中友好協会会長は・・・・「日中にとって大きな損失」10 年来、その揺ぎ無い平和主義の 信念に触れて来た。「複雑な世界情勢だからこそ「日中友好が最 大の安全保障」と言い切っていた。先代会長に学んだことは多 い。海江田氏の近くにいて氏の話をいつも聞かされていた鎌田 氏の記憶・・・「戦争って、いろんな理屈をつけますが、いい戦 争とか悪い戦争とかないと思うんです。戦争ってのは避けなく ちゃいけない、しちゃいけない事なんですね。ただ必ず「自衛 のため」とか理屈をつけますけど、どういう理屈をつけてもせ んそうしちゃいけない。
鹿児島県華僑総会の楊忠銀会長は・・・・ 全く威張らない穏やかな人、「こころの支えが亡くなった」と悲 しむ。『中国への理解が深く、県内の残留孤児関係者も『海江田 さんがいればこころ強い』と話していた。間違いなく民間交流 の架け橋だった。と声を落とす。
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このたび、中国人民対外友好協会楊万明会長(北京・国際交流の総責任者)ご一行が来福されることとなりました。また、江蘇省対外友好協会の銭文華副会長など中国全国から11の省も来福されます。
両国の地方政府の交流イベントも開催。
福岡県代表して熱熱歓迎の夕食会を開催致します。
是非ご出席下さいますようにお願い申し上げます。
-記-
◎日 時 2025年3月26日(水曜日)18:30~20:30
◎場 所 博多石焼大阪屋
(福岡市博多区中洲5丁目3-16 TEL: 092-291-6331)
◎内 容 歓迎懇親会
当。鹿児島県日中友好協会会長 鎌田 敬の乾杯と歓迎の挨拶を紹介
ちなみに参加された中国の代表の皆様に大きな拍手をいただきました。
ご挨拶 公益社団法人 日中友好協会 理事 鎌 田 敬
尊敬する楊万民対外友好協会会長、尊敬する中国外交部対外友好協会の皆様、本日はようこそ、ここ九州福岡の地へいらっしゃいました、心より御礼申し上げます。
私が九州日中友好協会の訪中団で中国を訪れましたのは2012年、尖閣諸島、魚釣り島の問題が勃発した年でした。日中間の人の往来が途絶えた時でした。
九州日中友好協会の松本竜会長が「こういう時だから中国を訪問しよう。」と提案され、40数名の訪中団で中国を訪れました。
外交部の中日友好協会の唐家会長にお会いし、お話を聞くことが出来ました。「中日関係は激流の中のボートのようなものである。いくら漕いでもなかなか前には進まない。しかし、一旦漕ぐ手を休めると、あっという間に流されてしまう。我々はどのような時でも、中日友好の旗を降ろしてはならない。
友好交流で大切なのは、若い人の交流である。若い人は中国の未来である。若い人は日本の未来である。若い人は中日の未来である。若い人の交流に尽力して欲しい。」私は鹿児島の地で日中の若い人の交流を行っております。また全国の日中友好協会も若い人の交流に尽力しております。
中國と日本との間には先人達が築いた「金の橋」が架かっております。
それは日本と中国の国交が回復する以前から、国交の回復を願い尽力した先人達が築いた金の橋です。周恩来首相、田中角栄総理大臣、松元治会会長、その他大勢の方々が築いた金の橋です。本日この金の橋を渡って、楊万民対外友好協会会長とそのご一行の皆様が九州福岡に来ていただきました。これほど嬉しいことはございません。
今後ともこの金の橋を荘厳し、多くの若い人達がこの橋を渡っていくように尽力して参ります。それでは中日の更なる発展を祈って、乾杯したいと思います。
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